<こどもの教会のための祈り(小説教)>ヨナ書3章3-5節
今日の旧約聖書はヨナ書だった。ヨナは預言者なんだ。ある日神様がヨナにね、「ニネベっていう町に行って、『神様の教えて下さったことを守らないと、滅びてしまうぞ』って言いなさい」って言われるんだ。ヨナはニネベの人が大嫌いだったから、「嫌です」って言って逃げ出して、船に乗って遠くに行こうとするんだけど、神様は嵐を起こした。それ船は沈みそうになってね。船の人達は、「ああ、もうダメだ。」って言うんだけど、ヨナは、「僕が原因だから、僕を海に投げなさい」って言うんだ。ヨナには、神様が嵐を起こしたの、分ってたんだね。海に投げ込まれたヨナを、神様は大きなクジラみたいな魚に飲み込ませた。暗いお魚のお腹の中でヨナも反省してね、「ニネベへ行きます」ってお祈りしたから、魚はヨナをニネベの海岸に吐き出したんだよ。そこで、「ちゃんと神様の仰ることを聞かないと、この町は滅びるぞ」って叫んだら、みんなびっくりしてね、あっという間に町中の人達が反省しちゃったの。だからニネベの町は救われたんだね。でも、ヨナはそれが気に入らなかった。「やっつけられちゃえばいいんだ」なんて思ってたからね。ヨナは、神様がどんな思いでヨナをニネベへ行かせようとしたか、分らなかったんだね。神様のお心ちゃんと知ろうとしないと、ヨナにようになる。「神様、み心を教えて下さい」って祈ることは、とても大事なことだよ。お祈りします。
使徒言行録9章26-28節 説教「聖霊の働き、バルナバの働き」要旨
今日は平和聖日です。み言葉を通して、私達が取り組むことの出来る、平和を生み出す働きについて、考えてみたいと思います。今日のみ言葉に登場するのは、バルナバで、彼は使徒言行録の4章36節に、最初に登場します。ここでは、①レビ族の人②バルナバ(慰めの子という意味)と呼ばれていたが、本名はヨセフ③キプロス島生まれ、と紹介されていますが、謎の多い人物です。
先ず第1に、レビ族とは、使徒言行録の時代には、エルサレム神殿の祭司を助ける補助者の役割を果たす人々のことでした。バルナバの出身地キプロス島には、勿論主の神殿はありませんから、何故レビ族と彼が呼ばれたのかが、一つの謎です。それはおそらく、レビ族を先祖に持つキプロス島出身者ということだろうと思います。第2に、バルナバイ=慰めの子と記されていますが、言語的に分析すると、バルナバという呼び名と慰めの子という言葉がイコールにならないのです。そこである学者は、教会の中でバルナバと呼ばれていたヨセフが、ある出来事を通して慰めを生み出す人という評価が与えられ、バルナバ=慰めを生み出す人(慰めの子)となったのではないかと推測しています。そこで私は、今日のみ言葉が、その「ある出来事」なのではないかと考えるのです。
それはこの様な出来事です。エルサレムの大祭司からのクリスチャン迫害の許可証を持って、ダマスコへの道を急いでいたサウロ(後のパウロ)は、その道で主イエスと出会い、劇的な回心をします。そしてダマスコでアナニアというキリスト者に導かれ、伝道者としての召命(神様から選ばれること)を受け、ダマスコで訓練を受けた後、エルサレムにやって来ます。そこでエルサレムの信徒達と交流しようとするのですが、教会の人々は、つい先日まで教会の迫害の先頭に立っていたサウロが、キリスト教の伝道者になったことが信じられず、彼を拒否したのです。
そこにバルナバが登場します。キプロス島出身で、ギリシャ語を話すユダヤ人であったバルナバは、同じような立場の人々と交流があったのでしょう。ダマスコ近郊でのサウロの劇的な回心や、その後の活動を良く知っていました。ダマスコにも知人がいたのかも知れません。そこでバルナバは、教会の中で孤立していたサウロを使徒達に紹介し、交流を始めるのです。その彼の働きがきっかけとなって、エルサレム教会全体が、サウロを受け入れ始めたのでした。
サウロもこの配慮が嬉しかったのでしょう。み言葉は、「それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。」と記しています。受け入れらた喜びと感謝の中で、張り切って宣教したサウロ。少し頑張り過ぎたのかも知れません。その彼に身の危険が迫った時、教会の仲間達は「兄弟」となって、つまり家族の一員のような思いでサウロの身を案じ、危険を顧みず彼を脱出させるのです。そしてタルソスへ行かせます。彼の出身地です。ここにも配慮を感じます。大転換を遂げたサウロの生き方を、身内の人々に理解して貰えと忠告したのかも知れません。身内の人々にとっては、エルサレムで駆け出しのファリサイ派として修行していたサウロが、ダマスコ途上で姿を消し、行方不明になったといった思いでいたであろうと推測されます。タルソスへ行けば行ったで大変だったかも知れませんが、サウロにとっては避けてはいけない関門です。きっとエルサレムの「兄弟達」はサウロを励まし、説得して、故郷へ赴かせたのです。
この様に、バルナバの献身的な働きは、駆け出しのファリサイ派サウロから、初代教会の偉大な伝道者パウロへの転換に、大きな役割を果たしました。バルナバ自身が、風評に囚われず、おそらくサウロと良く話したのでしょう、彼を受け入れ、教会の人々が彼の「兄弟」となるために積極的に働いたことが、教会に和解を生み出し、平和を生み出し、宣教の新たな実りを生んだのです。バルナバに働きかけた聖霊の働きを、彼が勇気を持って従順に受け入れ、どの様な働きが神のみ心に適うものかを、祈りをもって問い続け、周囲の誤解を恐れず、キリスト者として生きる道を誠実に選んだのです。まさにそれは、慰めを生み出す働き(慰めの子の働き)でありました。
今日は平和聖日です。平和を生み出すことは、政治問題ではありません。世界の平和は、私達が日常に生み出す小さな平和の集積なのです。このことを覚え、和解と平和をこの教会に生み出すバルナバとしての歩みに、主に支えられつつご一緒に歩み出したいと願うものです。祈りましょう。
聖なる神様、今日もこの礼拝でみ言葉を戴き、感謝致します。主に支えられ、バルナバは教会の中に新しい平和を生み出すために働きました。そしてそれが、新たな宣教の実りを生みだしたことを覚えます。バルナバの様に、主に支えられ、和解と平和を生み出す働きに、私達も踏み出すことが出来るよう、祈りを合わせる私達として下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン