<こどもの教会のための祈り(小説教)>
神様ってどんな顔してると思う?ドイツでね、大学の先生がたくさんの子ども達に聞いて調べたの。そして「皆さん、ドイツの子ども達は、神様はお爺さんで、杖をついていて、長い髭があると思っています。」って発表したのね。みんなもそう思う?子どもの頃はね、神様を優しいって思ってることが多いんだけど、大人になると、「神様は怖い」って感じる人が多いんだよ。自分が悪いことしてるの、良く分っていくからね。今日の旧約聖書に出て来た大人達もそうだった。だからイエス様が来て下さるまで、私達は神様と一緒に生きられなかったんだ。イエス様が十字架について下さって赦して下さったから、今、私達は神様の家族なんだね。お祈りします。
今日の新約の御言葉は、「山上の変貌」と呼ばれる物語です。主イエスはある日、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に上られます。その山頂付近で、主イエスのお姿が変貌し顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなるのです。高い山に登ることは、地上から神の世界(天)に近づくことです。神の何らかの働きがそこでは予想されるのですが、そこで起こったのが主の変貌で、神の子としての本質が、ここで表されたのです。
それに対応するかのように、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合います。モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物で、モーセは律法を、エリヤは預言書を代表します。つまりここでは、主イエスはファリサイ派が主張する様な伝統の破壊者ではなく、神の子であるばかりでなく、旧約以来の神と民の歴史を継承する者だと示されたのです。
これはこの世の人々への権威づけとして、恰好なものです。ですからペトロが「仮小屋を3つ建てましょう」と提案します。弟子達が人々を連れてこの山に登り、小屋に住むモーセとエリヤとイエスを見せれば、素晴らしい宣伝になると考えたのかも知れません。するとそれを遮るように光り輝く雲が3人を覆い、見えなくなり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」と神の声が響きます。これとほぼ同じ内容の言葉が、主イエスの洗礼の時にも響きました。この時は、救い主として活動を始められる主イエスへの神の認証・承認の言葉でしたが、今回は、十字架への道を進もうとされる主イエスへの認証・承認の言葉です。主は神のみ心を受けて、十字架への道を歩まれたのです。
ですから弟子達にも、神のみ心をしっかり受け取って、主に従うことが大切だということが、明らかなのですが、弟子達はその声を聞き、ひれ伏し、非常に恐れました。聞いたこともない威厳のある声が山で響いたのですから、驚いたのは無理もありませんが、天的な声に恐れおののいた、というだけではないものが、ここにはあります。それは弟子達の欲望と深い関わりがあることを、私達は知らなければなりません。
この物語の少し前に、主イエスをメシアだと告白したペトロが、十字架への決意を明らかにした主を諌め、厳しく叱責される場面があります。ここでペトロは、おそらく弟子達を代表して諌めたのだと思います。弟子達は、主イエスに君臨する王のとしての救い主を求めたのです。それなのに十字架の道を歩もうとしておられる、「とんでもない!従っている私達はどうなるのだ。」といったところでしょう。君臨する王の弟子として、甘い汁を味わいたいというのが本音でした。弟子達も王の部下として君臨したかったのです。
「サタン、引き下がれ!」主は厳しく言われました。み心に従おうとしない者は、サタンに操られた人間だ、と言われたのです。主の厳しさは、十字架の道でなされるサタンとの最終決戦において、み心に従うことでの勝利を目指す、主の強い決意と関わりがあります。そこまでの強い決意を、主は固めておられたのです。主と弟子達の間には、大きな意識のずれがありました。その中に彼らの恐れの源があったのです。弟子達の、その様な罪が自らの内にあることを深く覚える私達となるために、このレントの日々を祈りつつ歩みたいと願います。
聖なる神様、今日もみ言葉を戴き、感謝致します。主イエスは神と人とに仕える真の救い主でした。しかし弟子達の求めは、王として君臨されることでした。主の思いと弟子達の思いずれの中に、弟子達の恐れの源があることを、そして主に従えないその罪が私達の内にあることを深く覚えます。主よ、あなたの真の弟子として私達を育てて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン
<東日本大震災被災地(者)のための、執り成しの祈り>
主なる神様、み名を賛美致します。あの、東日本大震災から、今年で10年を迎えます。あの震災で、災害関連死を含めれば19,729名の方が命を落とされ、今なお、行方が分からない方々は2,559名を数えます。そして今も故郷に戻れない方々は4万人を超え、この神奈川県にも1,900人を超える方々が、避難者として生活しておられます。
しかし主よ、私達の心の中で、あの大震災の記憶は風化し、日々の生活に追われ、思い出すことも少ないのが現実です。どうか主よ、この罪の深さを思い、そこから目をそらさず、あの日の記憶を甦らせ、今なお苦しみの中にある被災者の方々を覚えて祈ることが出来る様、導いて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。